聖書からの証明

 

 数ページをかけて暦の歴史、安息日、新月の祭りについて考察してきたが、聖書をもとにしないならばこれらの理論は机上の空論でしかない。

 

そのため、これからはこの太陰太陽暦のカレンダーが、また太陰太陽暦の規則性が聖書のどこから見出せるのかに焦点をあてて検証していく。

 

 

 

出エジプト(旧約聖書)からの抽出

 

出エジプト12:1-2

12:1  主(ヤフワ)は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。

12:2  「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。

 

 これから見ていく聖書歴(太陰太陽暦)は、エジプトの430年という長い奴隷生活の間に暦の知識を失ってしまったイスラエル人のために、確立されたものである。

 

もし聖書の中で何日という記述があるときは、その月の新月の日(1日)からカウントする。

例えば、月の14日というのは新月の日を1日としたときの14日目ということになる。

 

 

 

ここで出エジプト12章に着目すると、エジプトを災いを免れるための過越しの羊は14日に殺されたという具体的な記述がある。

 

出エジプト12:6

あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、

 

出エジプト12:11-12

あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは主への過越のいけにえである。

その夜(14日の夜のこと)、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。

 

このように過越しの羊は14日の夜に火で焼かれて食べられた。イスラエルの人々は正装を着て、それぞれが杖を持って急いで食べた。

 

出エジプト12:22

12:22 ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない

 

そして、過越しの羊を皆でほふって食べた後、ヤフワ様の命令によりイスラエルの民は朝までその家に待機していた。そして、死の御使いは週の6日目にあたる14日の真夜中に、すべての初子を殺すために練り歩いていたことが分かる。

 

イスラエルの民の「腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち(出12:11)」という行為は、いつでもヤフワ様の命令に聞きしたがってエジプトを出ることができるというヤフワ様に対する完全なる従順のあらわれであった。

 

 

出エジプト12:31

12:31 パロはその夜(14日)、モーセとアロンを呼び寄せて言った。「おまえたちもイスラエル人も立ち上がって、私の民の中から出て行け。おまえたちが言うとおりに、行って、主に仕えよ。

 

上の聖句から、パロは14日の真夜中にモーセとアロンに出て行けと命じたことがわかる。

しかし、イスラエルの民は朝まで家から出ることができなかった。そのため、モーセとアロンは15日になってからパロに会いに行ったと思われる。

 

民数記33:3 

33:3 彼らは第一月、その月の十五日に、ラメセスから旅立った。すなわち過越のいけにえの翌日、イスラエル人は、全エジプトが見ている前を臆することなく出て行った。

 

申命記16:1

16:1 アビブ(第1の月のこと)の月を守り、あなたの神、主に過越のいけにえをささげなさい。アビブの月に、あなたの神、主が、(十五日の)夜のうちに、エジプトからあなたを連れ出されたからである。

 

 

ここまでを整理すると、14日の真夜中が過ぎ越しの祭り、イスラエルの人たちは15日の夜に出エジプトをした。太陰太陽暦でいうと、14日は週の6日目であり、次の15日は安息日に当たる日であった。

 

以下はそのまとめの図である。

 

新約聖書からの抽出

 

 これからは新約聖書と旧約聖書を交互に確認しながら、太陰太陽暦の日付が証明されていることを確認していく。

 

レビ23:5

 第一月の十四日には、夕暮れに過越のいけにえを主にささげる。

 

旧約では子羊が過ぎ越しのいけにえとしてほふられたが、新約ではヤフシュア様が真の過ぎ越しの羊であった。そのヤフシュア様が真の霊的な出エジプトをなしとげられたのである。

 

ヨハネ 19:31

その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。

 

旧約の時代では、15日は太陰太陽暦によると常に安息日に当たるので、過越しは14日に行われた。

新約でもそれは同様であったことが分かる。つまり、ヤフシュア様は過越しの羊として14日に十字架にかけられた。そして、十字架にかけられた次の日は大いなる安息日であった。

 

旧約では、羊は次の日(15日:安息日)まで残さないようにした。そしてそれは、新約でも同様に安息日まで死体を残すことのないような処置がなされたことが分かる。

 

ヨハネ13:1

さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。

 

新約では14日という明確な日付は聖書では書かれてはいないが、新約と旧約がシンクロしあってあるのが見て取れるはずである。

 

 

14日というのは週の6日目であることがわかる。その日は安息日のための備え日であった。

そして15日というのは大いなる安息日であった。この過ぎ越しの次の日に来る15日というのは、種無しパンの祭りでもあり、太陰太陽暦では常に安息日にあたる。

 

第1の月の15日というのは、過ぎ越しと出エジプトという2大イベントに挟まれた重大な日であった。そして新約ではこの大いなる安息日は、ヤフシュア様も贖いという働きを墓の中で休まれたのである。

 

昔の文献の「desire of ages」の p.794 には”週の 6 日目に彼らの師が死なれたのを見た”とも書かれている。

 

”On the sixth day of the week they had seen their Master die"

「週の6日目に彼らは自分たちの師が死なれたのを見た」

(出典:Desire of Ages,P.794)

 

太陰太陽暦ではいつも14日は週の 6 日目にあたる。それゆえ、次の日の15日はいつも安息日となる。

 

民数記33:2-4

33:2 モーセは主の命により、彼らの旅程の出発地点を書きしるした。その旅程は、出発地点によると次のとおりである。

33:3 彼らは第一月、その月の十五日に、ラメセスから旅立った。すなわち過越のいけにえの翌日、イスラエル人は、全エジプトが見ている前を臆することなく出て行った

33:4 エジプトは、彼らの間で主が打ち殺されたすべての初子を埋葬していた。主は彼らの神々にさばきを下された。

 

申命記の 16:1

16:1 アビブの月を守り、あなたの神、主に過越のいけにえをささげなさい。アビブの月に、あなたの神、主が、夜のうちにエジプトからあなたを連れ出されたからである

 

以上より、旧約聖書では子羊がほふられたのは14日であり、これは太陰太陽暦では週の6日目であった。そしてそれは新約でも同様に、世を贖う子羊であられたヤフシュア様も週の6日目に十字架にかけられ、その次の日は週の七日目の安息日であった。

 

 

太陰太陽暦では安息日は常に8日、15日、22日,29日である。

 

 

聖書より過ぎ越しの日付は14日、十字架の贖いも14日、つまり週の6日目であった。

そして、次の日の15日はどちらも安息日であった。

 

もし15日が安息日であることが分かれば、1週前の安息日の日付は8日になる。もしそうならば、7日に安息日がくるようなことは決してない。なぜならば、毎月の1日の新月祭という枠が、ヤフワ様によって普段の一週間のサイクルとは別で確保され、一週間のサイクルの中に入っていないということを確認できるからである。

 

8 日目に安息日が来るということは、その週の初めの日付は2日ということになる。

 

新月の日という日は、月がそこから輝き始めて満月になるように、次にくる月のためにヤフワ様に犯してしまった罪を悔い改める日である。

 

出エジプトのとき、安息日の聖別された時間帯というのはとても活発な夜の間に挟まれている。過ぎ越しの祭りと出エジプトである。

 

つまりその間に挟まれている、15日の太陽が昇ってから沈むまで、それが安息日を守らなければいけない時間帯となる。ヤフワ様は安息の時間帯に出エジプトさせないことによって、ご自身の命令された安息日を守ったことになる

 

つまり、ヤフワ様のカレンダーというのは常に新月というのは週のサイクルで始まる。そして、安息日はいつでも8日、15日,22日、29日となる。

 

正しい安息日に救い主を礼拝するためには、聖書的な太陰太陽暦のカレンダーを使用しなければならない。

 

正しい安息日に礼拝することは、本当の過ぎ越しの羊となられた救い主であられる方に対して、忠実な信仰の堅い約束になる。

 

もし私たちの忠実さを私たちの救い主に見せたいと願うのであれば、創造主の作られたカレンダーの正しい安息日に礼拝すべきである。

 

以上より、旧約では第1の月の14日に過越しが行われ、新約でも同じ日にヤフシュア様が十字架にかかられた。そして、つぎの日の15日は大いなる安息日であり、ヤフシュア様も贖いという働きを休まれ、墓の中で安息を守っておられた。

 

マナから導き出す太陰太陽暦

 

 先ほどまでは出エジプトと十字架によって太陰太陽暦を検証してきた。聖書の中の最も美しい奇跡の物語の一つは出エジプトの 16:1-36 に見られる。次はこのマナの法則によって創造主のカレンダーを見ていくこととする。

 

第1の月の15日に出エジプトをしたイスラエルの民は一か月後、天の父なるヤフワ様は不満を言うイスラエルの民たちに天からマナを与えられた。

 

この古い物語は、何度も何度も聞かされてきたものであるが、この出来事により創造主であるヤフワ様の本当のカレンダーの教えの詳細を見渡すことができる。

 

というのも、2ヵ月連続でヤフワ様はすべての月の日付は新月の日から数えることを秩序づけられたのである。

 

“月”という単語は英語で"month"と表すが、それは月の"moon"から来ている。日本語の何月の月という言葉は月によって定められ、1日は太陽によって定められていることが分かる。

 

 

聖句でも ”month(月)” という単語は、明確に新月という単語を 250 回も指し示している。

 

オックスフォード大辞典は month(月) と new moon (新月)についてさらなる情報を提示している。

Month(月):「月(Month) というのは月(moon)に関係している。月の満ち欠けの期間に従って時間を測る。」

New moon(新月) :「太陽とちょうど重なったときかその直後、細い三日月として見えるか見えないかの月」

 

グレゴリオ暦というのは1582年にグレゴリー13 世が制定した現行の太陽暦のことであるが、このグレゴリオカレンダーと聖書的カレンダーとの違いは余り気づかれていない。なぜなら、今の太陽暦はこの世が創造された時から絶え間なく続いていると、現代のクリスチャンに勘違いされているからである。

 

現在私たちが生活していくための暦として、太陽暦が用いられている。

しかし、一週間というサイクルの現在のカレンダーは、聖書に出てくる太陰太陽暦と調和を保っていないことが分かる。

 

以下の聖句は第1の月の15日に出エジプトをしたイスラエルの民が、ちょうど1か月後にシンの荒野に入った箇所である。

 

出エジプト 16:1-2

16:1  ついで、イスラエル人の全会衆は、エリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の

月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野にはいった。

16:2  そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。

 

ここでは、イスラエルの民が出エジプトをしたちょうど一か月後の物語が描かれている。

イスラエルの民は食べ物が完全になくなることを恐れて、モーセとアロンに不平を言い始めた。

 

出エジプト16:12-13

16:12  「わたしはイスラエル人のつぶやきを聞いた。彼らに告げて言え。『あなたがたは夕

暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りるであろう。あなたがたはわたしがあなたがたの神、主であることを知るようになる。』」

16:13 それから、夕方になるとうずらが飛んで来て、宿営をおおい、朝になると、宿営の回りに露が一面に降りた。

 

ヤフワ様は15日の夕方にウズラを食べ物のために送られた。

そして次の明け方の 16 日の朝にはヤフワ様は天からマナと呼ばれるパンを降らせた。

 

新月から数えて 15 日目の朝(安息日)にイスラエルの人々は飢えのために不満を言った。そして、15 日の夕方になるとウズラを送られた。

そして 16 日の朝にはマナをくださったが、16 日は太陰太陽暦でいうところの週の初めの日である。

 

そこからイスラエルの民は五日間一人につき一オメルづつ集めた。そして、六日目にはその二倍の量を集めて、七日目にはマナは降らなかった。

つまり、まとめると以下のようになる。

 

 

・ヤフワ様はウズラを安息日の終わる 15 日の夕方に送られた。

・そしてマナを16 日から 21 日まで6日間連続してマナを降らされた。

・7日目である22日は安息日であったので、マナは降らなかった。

→16 日が週の初めの日であり、22日が7日目の安息日であることを示している。

 

 

 

 聖書は明確に第2の月の16日から、マナが与えられたことを記述している。

その七日後というのは 22 日にあたる。つまり、22日が安息日であれば、第二の月の 15 日も安息日ということになる。

 

ヤフワ様は出エジプトの時と同様にうずらを安息日の終わる夕暮れに送ることによって、安息の神聖な時間を守られた。

 

これは出エジプトをした第1の月の 15 日に行われたことと同様の配慮である。

ヤフワ様は夜にイスラエル人をエジプトから導いたときと同様に、安息日の時間帯に従われた。

 

第2の月では、15日が最初に与えられた日付の情報である。これは16日に最初にマナが降ったという事実に従っている。

これはつまり、22 日も安息日であるということを指している。

 

1日の新月の日に続く 15,16,22 日という3つのデータから、第二の月のカレンダーも8日、15日、22日、29日が安息日の日付であることが示せた。

そして、これは1日の新月の日があるという証拠にもなる。

(もし新月の日が無ければ、安息日は7日、14日、21日、28日になるはずだからである)

 

以上より、聖書的な月の一週間のサイクルは 2 か月連続で新月の日と結びついているという結果が出た。

四つの連続する週は新月の日に沿っており、現代の太陽暦のように一つ一つ月の日付と場所が違うということにはならない。

 

この第1の月と第2の月に関して、15 日が安息日となることにより、結果的に8、22,29 日も安息日となる。

 

創造主であるヤフワ様は、現代の異教徒のカレンダーの連続する週のサイクルによって混乱させられることを知っていた。そのため、ヤフワ様は愛情をこめて、月の始まりと新月の時がいつかを詳細に聖書に保存した。

 

出エジプトとマナで与えられた日付は、新月に続く4つのサイクルがあることを明らかにした。(month  という単語は月に由来しており、月の満ち欠けが 29.5 日であるから)

またそれにより、太陰太陽暦の週は毎月、新月の日から始まることを明らかにした。

 

シナイ山到着についての記述

 

民数記33:3

33:3  彼らは第一月、その月の十五日に、ラメセスから旅立った。すなわち過越のいけにえ

の翌日、イスラエル人は、全エジプトが見ている前を臆することなく出て行った。

 

そして、イスラエルの民は第2の月の15日にはシンの荒野に入り、マナを頂いた。

聖書は、そのあとのことも記述している。これは出エジプトからちょうど2か月後の物語である。

 

出エジプト19:1-2(新改訳)

19:1 エジプトの地を出たイスラエル人は、第三の月の新月のその日に、シナイの荒野にはいった。

19:2 彼らはレフィディムを旅立って、シナイの荒野にはいり、その荒野で宿営した。イスラエルはそこで、山のすぐ前に宿営した

 

ここで問題が発生する。新改訳では新月のその日にと訳されているが、英語訳や新共同訳、口語訳では出エジプトをしたその日に荒野に入ったと訳しているのである。以下は一覧の聖句である。

  

 

これは、後の五旬節を計算するときにも問題になってくるので後ほど口述するが、ここでは新改訳の新月の日ではなく、出エジプトをした第3の月の15日という解釈が正解である。

 

つまり、イスラエルの民は第1の月の15日に出エジプトをしてそのちょうど2カ月後の第3の月の15日にシナイ山に到着し、宿営を張った。

 

 

何の前提条件がないとすれば、この行動だけからはこの日が安息日であるとは読み取れないが、太陰太陽暦が前提であると考えたならば、15 日の安息日に旅をやめて、宿営したことは理に適っていることになる。

 

つまり、第3の月の 15 日も第1の月、また第2の月と同様に安息日であった。

 

ヤフワ様は出エジプトの時、聖なる安息日の時間帯に連れ出さず、夜に連れ出すことによって、安息日を破られなかった。

 

申命記の16:1

16:1  アビブの月を守り、あなたの神、主に過越のいけにえをささげなさい。アビブの月に、

あなたの神、主が、夜のうちに、エジプトからあなたを連れ出されたからである

 

申命記1:33

1:33 主は、あなたがたが宿営する場所を捜すために、道中あなたがたの先に立って行かれ、夜は火のうち、昼は雲のうちにあって、あなたがたの進んで行く道を示されるのだ。」

 

ヤフワ様は安息日の聖別された時間帯の間はシナイ山に向けて出発なさらなかった。ヤフワ様はいつもご自身の御言葉に従っておられることが分かる。

十戒の四番目には「安息日を覚えて、これを聖とせよ」と書いてあるとおりである。

 

一度この原理を理解することができれば、3か月前の出エジプトの時のように、レフィディムから夜のうちにシナイ山に導かれたという想定をすることができる。

 

もし15 日が安息日であった場合、他の安息日の日付は必ず8日、22日、29日になる。また、この4日間が安息日ならば、太陰太陽暦は必ず新月の日から始まることになる。

 

つまり、安息日が15日であるならば、現代のカレンダーのように曜日が固定されるのではなく、日付が固定されている前2か月の太陰太陽暦のカレンダーとフォーマットは全く同じであることがわかる。

 

出エジプトとマナ、またシナイ山の到着の詳細は、3か月連続で1日の新月の日から始まり、8日、15日、22日、29日が安息日であることを示している。

 

このようなカレンダーのレイアウトは現代のグレゴリオ歴のカレンダーの連続する週では不可能であることがわかる。

 

聖書的な日付の計算は、創造主が創られたカレンダーによってのみ証明される。

この太陰太陽暦だけが、3か月連続で全く同じ所に並んだ全く同じ日付のデータとヤフワ様がなさった出来事を述べることができる。

 

 

ひとつのテキストを見てその事実に固執するのではなく、イスラエルの出エジプトのために何度も与えられた詳細な記録によって、太陰太陽暦によってのみ聖書の日付を計算することができる十分な証拠を聖書は示してくれた。

 

それぞれの新月からの数は、創造主であられるヤフワ様が礼拝のためにデザインされた真の安息日を見つけるための唯一の方法である。

 

聖書で与えられたように、それぞれの月の8日、15日、22日、29日に礼拝することが天の父なるヤフワ様の御心なのである。

 

出エジプトから40年後

 

 ここからはイスラエルの民が出エジプトをしてから40年後の物語である。

40年後にイスラエルに与えられていた天からのマナは止んだ。

 

この時代は預言者モーセが死んで、イスラエルにはヨシュアという新たなリーダーが立った時である。

 

ヤフワ様は年の最初の月のカレンダーの詳細を示すことによって、時間測定のシステムを証明された。

第2の月の16日から始めて、ヤフワ様は天から初めてのマナを送られた。そして、40 年後の第1の月の16日にマナは永遠に止んだ。

約束の地に入った後、ヨシュアは詳細に記録をつけている。

 

ヨシュア 5:10-12

5:10 イスラエル人が、ギルガルに宿営しているとき、その月の十四日の夕方、エリコの草原で彼らは過越のいけにえをささげた

5:11 過越のいけにえをささげた翌日(15日のこと)、彼らはその地の産物、「種を入れないパン」と、炒り麦を食べた。その日のうちであった

5:12 彼らがその地の産物を食べた翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエル人には、もうマナはなかった。それで、彼らはその年のうちにカナンの地で収穫した物を食べた。

 

 

 聖書によると第一の月の 14 日は過ぎ越しの祭りである。14 日は週の6日目の日であり、次の日の15日は安息日であった。

 

安息日のため15 日はマナが降らなかったが、その土地の産物を食べた次の日の 16 日(週の初めの日)からマナが降らなくなった。

 

ヨシュア記というのはヨシュアによって書かれたが、モーセによって記録されたカレンダーの原理と完全な調和を保っていることがわかる。

 

リーダーが変わったとしてもヤフワ様のカレンダーの原理は変わらなかった。

ヨシュアのリーダーの時代にも、連続するカレンダーの証明をするために 3 つの連続する日に焦点を当てている。

 

それは、第1の月の 14 日(過越し)、15 日(種無しパンの祭り)、16日(初穂の祭り)である。過ぎ越しの祭りはモーセがリーダーであった時と同じようにヨシュアによっても守られた。

 

レビ 23:5

23:5  第一月の十四日には、夕暮れに過越のいけにえを主にささげる。

 

40 年後も、第1の月の 14 日は週の第 6 日目であり続け、15日が安息日であった。

またそれは40年後のみならず、ヤフシュア様が十字架にかかられたときまで続いていた。

 

 

マナが与えられたのは、ヤフワ様によって第 2 の月の週と安息日を説明するためであった。

 

1か月後、2か月後、40年後、2000年後であっても、安息日は8日、15日、22日、29日であることがわかる。そして、第一の月が変わらなければそれは第 2 の月でも同じである。

 

ヤフワ様は第一の月の 15 日を一貫して安息日であり、種無しパンの祭りとした。それは 40

年間と約束の地に入った後でもそうであった。

 

そして第1の月の16日に40年間で初めてマナが降らなくなり、週の最初の日にマナは永遠に止んだ。

 

まとめ

 これまで、旧約聖書を中心として聖書歴が太陰太陽暦であること、また聖書の出来事が太陰太陽暦を中心として起こり、太陰太陽暦を主軸にして旧約聖書を読めば聖書の出来事が非常に理に適ったものであることが分かる。

 

 太陰太陽暦の証明は、出エジプトからしか抽出できないのではない。ほかの聖書の個所を読めば、聖書の暦は常に太陰太陽暦に基づいていることが分かるはずである。

 

出エジプトでは、長い奴隷生活のために聖書の暦を忘れてしまったイスラエルの民のために、詳細に記載されているので、今回は詳しく証明するために出エジプトを取り上げた。

 

この創世記から続く太陰太陽暦は、十字架によって廃棄された暦なのだろうか?

「暦の歴史」で見てきた通り、太陰太陽暦はクリスチャンでもないコンスタンティヌス1世によって変更されたのである。

 

是非聖書を読むとき、8日・15日・22日・29日という日付に着目して、より深い悟りをもって聖書を読んでいただきたいと思う。

 

 

おまけ

すべて英語です...